相撲界に突如出現した新星・尊富士(たけるふじ)の小学校・中学校・高校はもちろん、大学までの学歴や学生時代の成績を総まとめしていきます。
三役昇進に留まらず、一気に大関・横綱まで駆け上がりそうな勢いの尊富士ですが、出身小学校でどんなエピソードが存在しているのでしょうか。
尊富士の出身小学校
尊富士は「五所川原市立金木小学校(青森県)」出身です。
・小学校1年(6歳)から相撲生活がスタート
・アマチュア相撲出身の祖父の影響で相撲に打ち込む
・幼い頃は相撲の稽古が厳しくて、逃げ出したい気持ちが強かった
・小学校4年(10歳)で「わんぱく相撲全国大会」団体優勝と個人戦8強入り
・小学校5年(11歳)でも「わんぱく相撲全国大会」個人戦3位
・10歳の時は野球に打ち込んでいたが、全国大会入賞がきっかけで相撲一本に
・テレビゲームではなく、外で遊びまわることが多く、活発な幼少期を過ごす
・小学校5年で「つがる旭富士ジュニアクラブ」という相撲教室に加入
祖父・工藤弘美さんがアマチュア相撲の指導者だった縁もあり、尊富士は幼い頃から相撲漬けの毎日を過ごすことになります。
つがる旭富士ジュニアクラブで尊富士をコーチングしていた恩師・越後谷清彦さんから素質の高さを認められているかと思いきや、小学校時代はあまり強くなかったことが暴露されていました。
「最初から強いわけではなかった。腕立て、股割りができなくて体が硬かったので基礎を教えた。」
引用:東スポ
恩師が相撲の基礎をしっかりと叩き込んでくれたからこそ、尊富士の今があるわけですから、つがる旭富士ジュニアクラブで教えてもらったことが大きな財産になっているのは間違いないでしょうね。
尊富士の出身中学校
尊富士は中学校時代に転校を経験しています。
最初に通っていたのは「五所川原市立金木中学校」でした。
しかし、相撲で更なるレベルアップを図りたい!という思いが強かった尊富士は、校内に相撲部が存在している「つがる市立木造中学校」への転校を決意したのです。
・木造中学校は伊勢ヶ浜親方(元横綱・旭富士)の母校
・夏場は伊勢ヶ浜部屋の合宿に参加
・中学校の頃から伊勢ヶ浜親方や照ノ富士と稽古を積む
・中学校3年(15歳)で全国都道府県中学生大会個人戦3位
・白鵬杯団体戦優勝、個人戦3位
・全中大会の個人戦でも8強入り
木造中学校に転校してからは相撲のエリート街道を歩んでいて、白鵬杯など全国大会で目覚ましい成績を残したほか、尊富士は中学校の時点で横綱・照ノ富士と稽古を積み、たくましく成長していきました。
尊富士の出身高校
尊富士は「鳥取城北高校(偏差値40から61)」出身です。
・リスペクトしている照ノ富士と同じ鳥取城北高校に進学
・地元を離れる寂しさよりも強い力士になることを優先し、鳥取への相撲留学を決意
・相撲強豪校だが高校1年から団体戦レギュラーに抜てき
・高校1年(16歳)の金沢大会で個人戦8強入り
・高校2年(17歳)で大怪我(左膝前十字靱帯断裂)を経験
・高校3年(18歳)の高校総体個人戦と選抜大会個人戦でともに3位
・高校3年の国体個人戦準決勝で王鵬に敗れ、左膝の怪我に見舞われる
心の底から尊敬している照ノ富士の背中を追うため、鳥取城北高校へと進んだ尊富士でしたが、高校時代は左膝の怪我に悩まされていました。
怪我さえなければ、全国大会優勝も夢ではなかった…と悔やむ相撲ファンも数多くいますし、高校生の時点で大きな挫折を味わったことになりますね。
尊富士は大学に進学してる?
尊富士は鳥取城北高校卒業後に大学進学を選択しており、「日本大学法学部政治経済学科(偏差値は50から52.5)」を卒業しています。
・大学で実績を積んでから角界入りすることを決意
・大学2年(20歳)で全国学生選手権団体優勝を果たし、注目の的に
・全国学生選手権の団体決勝で右膝を怪我
・怪我の影響で力士になることを諦め、トレーナー転身を考える
・大学3年(21歳)で全国学生選手権団体2連覇
・大学4年(22歳)で全国学生相撲個人体重別選手権大会の無差別級でベスト16入り
・日本大学卒業後に伊勢ヶ浜部屋への入門が正式決定
遠藤など優秀な力士を数多く輩出している日本大学相撲部の絶対的エースとして君臨していた尊富士でしたが、高校時代と同様に大学でも怪我との闘いが続きました。
大学2年の時に右膝を負傷したことを受け、力士になることを断念し、トレーナーに転身するという新しい道を模索していた尊富士。
でも、辛いリハビリを乗り越えて無事に戦列復帰を果たすと、大学3年では全国学生選手権団体2連覇に大きく貢献し、力士になる夢を再び追い始め、大学卒業後に伊勢ヶ浜部屋への入門を決めるのでした。
まとめ
尊富士の学歴を整理すると「金木小学校→金木中学校→木造中学校→鳥取城北高校→日本大学」です。
高校と大学で全国大会上位入賞を何度も経験するなど、学生時代に十分すぎる成績を残しているものの、怪我に悩まされ、一時期はトレーナーへの転身を本気で考えていたというエピソードも存在していました。